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元レンジャー隊員のブログ

精神統一

正しい精神統一は、戒律を(心に銘記したことを)守ることから生じ、戒律を守ることは、眼・耳・鼻・舌・皮膚・心という感覚器官を外界から守り制御すること、すなわち眼で見る色形・耳で聞く音・鼻で嗅ぐ香り・舌で味わう味・身体で感じる感触・心で覚える概念といった対象に我を(注意を)奪われないことから生じ、感覚器官を守り制御することは、思慮深く自覚的であることから生じ、思慮深く自覚的であることは、精神統一の障害(すなわち渇望・悪意・倦怠・心の浮き沈み・疑い)を克服し、満足することから生じる。

ではどのようにして心に銘記した戒律を守るのか。たとえば自己のライバルに対し、嘘を語ろうという妄想に害されるときは、その妄想に対抗するものを次のように繰り返し思念すべきである。『私は真実を語ることによって憂いから離れている。ひとたび捨てた妄想を私が再びいだくならば、自らの反吐をなめる犬のようなものである』と。

自己制御を克服した者は、自身の内部において完璧な幸福が体験される。こうして戒律を遵守する者は、戒律による自己制御に関するかぎり、少しの脅威も覚えない。

ではどのようにして感覚器官を外界から防御するのか。たとえば、眼で物を見るとき、その全体のすがたにも捉われず、その細部にも捉われないように心がけて物を見ることである。この眼という感覚器官が制御されていないことが原因となって、その者に心の散乱する状態が入り込むのであるから、それを制御するよう心がけるべきである。その他耳で音や声を聞くとき、鼻でにおいを嗅ぐとき、舌で味を味わうとき、身体で感触するとき、心で事柄を判断するときにも、同じように、その対象の全体のすがたにも、細部にも捉われずに、感覚器官の制御が達成されたとき、自己の内部において汚れなき幸福が体験される。こうして感覚器官が外界から防御される。

ではどのようにして思慮深く自覚的であることを身につけるのか。思慮深く自覚的であるとは、配慮が行き届いていて、自分が何をしているのかが正確に解っている状態のことである。つまり、思考するときも自身と関連づける範疇を大きく保持し、行動するときもすべてにおいて自覚的に行動するよう心がけることである。前を見るとき、うしろを見るとき、腕を伸ばすとき、縮めるとき、荷物を持つとき、置くとき、食べ、飲み、噛み、飲み込むとき、歩き、立ち止まり、座り、眠るとき、目覚めたとき、語るとき、黙っているとき、すべてにおいて、なにげなく(自己不在であるかのように)行動するのではなくて、自覚的に行動することである。こうして思慮深く自覚的であることが身につく。

ではどのようにして精神統一の障害となる渇望・悪意・倦怠・心の浮き沈み・疑いを克服し、常に満足する者となるのか。満足とは、この身や世間に対する執着から離れた、欲望の征服者としての意識である。

たとえば、莫大な借金で苦しんでいる人が、ついにすべてを返済し終わったとする。すると彼はこう考える。『私は前に借金で苦しんだ。だが今は返済も終わり苦しみから解放された』と。こう考えることによって彼は歓喜を得、心が安らかとなる。

またたとえば、ある人が病気になって苦しみ、その病が重くなると食事もまずくなり、身体に力が入らなくなる。その彼が病気から回復すると、食物が味わえるようになり、身体にも力が入るようになってきた。彼はこう考える。『私は前に病気をして苦しみ、病が重くなって食事はまずく、身体に力が入らなくなった。その私が今では病気から回復し、食事はうまくなり、身体に力が入っている』と。こう考えることによって彼は歓喜を得、心が安らかとなる。

またたとえば、ある人が牢獄につながれたが、後日無事に解放され、また以前と同じ生活に戻れたとする。彼はこう考える。『私は牢獄に閉じ込められ、いつそこから出れるのか分からない不安な日々を送った。だが今では安全無事に釈放され、私の元の生活に戻ることができた』と。こう考えることによって彼は歓喜を得、心が安らかとなる。

あるいはまた、ある奴隷がいて、自由意志をまったく認められず、他人に拘束され、行きたいところへも行けなかった。その彼が、後日、奴隷の身分から解放され、自己を回復し、他人に拘束されず、自由の身分となって行きたいところへも行けるようになったとする。彼はこう考える。『私は以前、自由意志をまったく認められず、他人に拘束され、行きたいところへも行けなかった。それが今では自由の身となり、自己を回復し、他人に拘束されず、行きたいところへ行くことができる』と。こう考えることによって彼は歓喜を得、心が安らかとなる。

あるいはまた、平穏に暮らしている者が、荒野の危険な旅を、食料もなく、恐怖におののきながら歩いている。やがて、荒野を抜けて安全な村のはずれまで無事にたどりついたとする。彼はこう考える。『私は荒野の危険な中を、食料もなく、恐怖におののきながら歩いていたが、その私が今では、荒野を通り抜け、恐怖もない安全な村まで無事にたどりついた』と。こう考えることによって彼は歓喜を得、心が安らかとなる。

これとまさに同じく、前に挙げた精神統一の障害、すなわち渇望・悪意・倦怠・心の浮き沈み・疑いを自己の中において克服しないかぎり、それらを借金のように、病気のように、牢獄のように、奴隷のように、荒野の旅路のようなものと見る。しかし、これらの障害を自己の中において克服したとき、その者は、それをあたかも、借金から解放されたように、病気がなくなったように、牢獄から放免されたように、自由を手に入れたように、安全な土地にいる者のように見る。

このようにしてあらゆる障害が取り除かれているのを自己のなかに見るならば、その人には喜悦が生じ、心が喜悦した人は身体の軽やかな安らぎが生じ、身体が軽やかに安らいだ人は幸福を覚え、幸福な人の心は安定を得るに至る。




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