コールバーグの道徳性発達の6段階

Ⅰ 慣習的水準以前

この水準の子どもは、文化の規則と「善い」「悪い」「正しい」「間違っている」というような、行為につけられたラベルに敏感である。しかし、それらのラベルは、行為によって生じた物理的な結果または快楽主義的な意味での結果(罰、報酬、好意の交換)がどうかという点で解釈されるか、あるいは規則やラベルを宣言した人の身体的な力がどうであるかという点から解釈される。この水準は、次の二つの段階に分けられる。

第一段階 罰と服従への志向

物理的な結果によって行為の善悪を判断し、結果のもつ人間的な意味や価値を無視する。罰を避け、力のあるものに対して盲目的に服従することは、それ自体価値のあることだとされる。しかし、罰や権威によって支えられて背後に存在している道徳的秩序を尊重することによって、それらが価値づけられるのではない(その場合は第四段階である)。

第二段階 道具主義的な相対主義志向

正しい行為とは、自分の欲求や場合によっては他人の欲求を満たすための手段である。人間関係は取引の場のようにみられている。公平、相互性、平等な分配という要素は含まれているが、それらは常に、物質的で実用主義的に解釈される。相互性は、「君が僕の背中をかいてくれれば、僕も君の背中をかいてあげる」といったものであり、忠誠、感謝、公正といった事柄ではない。

Ⅱ 慣習的水準

この水準では、各人の家庭、集団、国家のもつ期待が、直接的にどのような結果が明確に生じようとも、それ自体価値をもつものとしてとらえられる。個人的な期待や社会秩序に同調するという態度だけではなく、忠誠心をもった態度、秩序を積極的に維持し、支持し、そしてそれを正当なものとする態度、そして、秩序に含まれる人々や集団と同一視する態度をとる。この水準は次の二つの段階に分けられる。

第三段階 対人的同調、あるいは「よいこ」志向

善い行為とは、他を喜ばせたり、助けたりすることであり、他者から肯定されるようなことである。多数派の行動あるいは「自然な(ふつうの)」行為という習慣化されたイメージに自分を同調させる。行為は、しばしばその意図の善し悪しによって判断される。「彼は善いことを意図している」ということは、まず重要なことになる。「善良であること」によって是認を受ける。

第四段階 「法と秩序」志向

権威や固定された規則、そして社会秩序の維持を指針とする。正しい行為とは、義務を果たすこと、権威への尊敬を示すこと、すでにある社会秩序をそれ自体維持することである。

Ⅲ 慣習的水準以降、自律的、原理化された水準

この水準では、道徳的価値と道徳原理を定義しようとする明確な努力がみられる。それらの道徳的価値や道徳原理は、それらを支持する集団や人々の権威とは独立に、そしてそれらの集団に個人が同一視しているということとも独立に妥当性をもち、適用性をもつものである。この水準もまた、二つの段階に分けられる。

第五段階 社会契約的な法律志向

一般に功利主義的な色あいを帯びている。正しい行為とは、一般的な個人の権利や、社会全体によって批判的に吟味され一致した規準によって定められる傾向がある。私的な価値観や見解の相対性を明確に意識し、一致に達するための手続き上の規準を強調する。合法的に民主的に一致したことを別にすれば、権利は、私的な「価値観」と「見解」に関することがらである。結果的には「法的な観点」が強調されるが、社会的利益についての合理的な考察によって法を変えることができることも、同時に強調される(第四段階の「法と秩序」の考えのように法を固定化するのではない)。法の領域を離れれば、自由な同意と契約が、義務に拘束力を与える要素である。この考え方は、合衆国の政府及び憲法における「公式の」道徳性である。

第六段階 普遍的な倫理的原理の志向

正しさは、論理的包括性、普遍性、一貫性に訴えて、自分自身で選択した「倫理的原理」に従う良心によって定められる。それらの倫理的原理は、抽象的であり、倫理的である(黄金律・・・己の欲するところを人に施せ、定言的命令)。すなわちそれらは、「公正」、人間の「権利」の「相互性」と「平等性」、「個々の人格」としての人間の尊厳の尊重という、普遍的な諸原理である。

道徳性の発達段階(kohlberg. 1976)

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